無限のように続く渋滞の車列と、鈍く光るテールライト。
その横を、恋人を自転車の後ろに乗せた私は必死に走っている。
動かなくなった電車の代わりに、私が彼女を家に送り届けなければ。
何かしていないと、とにかく何か行動を。
そうしないければ、どうにかなってしまいそうだったのだと思う。
2011年3月11日。
高校を卒業したばかりの私は、当時付き合っていた恋人とカラオケにいた。
JR津田沼駅の近くに建つビルの10階。
唐突に訪れた、何が起こったかわからないほどの揺れ。ビルが爆破でもされたのかと思った。
彼女と部屋を飛び出す。
廊下は同様の人々で溢れていた。春休み中、平日の昼間だからだろう。みな若かった。
「早く非常階段に!」叫んでいるのは自分だった。
こんな時に周囲に気を配る余裕があるのかと奇妙だった。
外に出て、駅前の広場に避難している人の一団と合流する。
何度か来る大きな余震。
「大変なことが起こった」
まだニュースは見ていなかったが、揺れ続ける地面と繋がらない携帯、伝播していく不安。確信するには充分だった。
「ここに居てはいけない」
一時間弱歩くが、行ける距離だと思い私の実家に向かうことにした。
ただ彼女を守りたい、安心できる場所に行きたい。その一心だった。
彼女を連れ、駅から東京湾の方に向かって歩き出す。
私の家は津田沼駅より南西にある、埋立地の上に建っていたからだ。
歩くにつれ変わって行く景色に目を疑った。
街が、海になっていた。
「液状化」
すぐにその言葉が浮かぶ。
子供の頃から何度も両親の世間話や災害ドキュメンタリーで聞いていた情報。
ずっと言われていたことだった。
砂浜みたくなった大地の上で電柱が、家が、傾いている。
歩道橋は折れ、道には亀裂。
沈み始めた陽に照らされたその景色を、幻想的とすら思った。
限界だった。
少し傾いた実家に辿り着く。被害は軽微なものだった。帰る家が無事なことに安心する。
チャイムを鳴らすと、暫く経って姉が出てきた。彼女一人の様だった。
「寝ていた。何が起こったか知らない。知らない人を勝手に連れてくるな」
そう言って姉は私たちを拒んだ。
私たちは仲の悪い姉弟だった。怒りを覚えるほどいつも通りの姉がいた。
今では冷静に考えられる。あの時姉も限界だったのだ。きっと、どうすればいいか分からなくて、普段通りの行動しか出来なかったのだ。
一先ず実家は頼れない。だが私の家は(そして少なくとも姉は)無事なことがわかった。
次にする事は決まっていた。
「恋人を家族の元に送り届けなければ。」
それが一番優先すべき責任だと思った。
国道沿いを、彼女を自転車に乗せて走り続ける。二人乗りが違法なことなんて、頭から消え去っていた。そんなことは本当にどうでもよかった。
何時間走ったのだろうか。すっかり夜になった頃、目的地に辿り着いた。
彼女の家も家族も無事だった。
少し冷静さを取り戻していた自分は「自分の行動は正しかったのか?」や「何かもっといい手段があったのでは」なんて狼狽えていたが。
「あがっていきなさい」彼女の母が優しく言ってくれた。
リビングではテレビニュースが流れている。流れてくる異様な映像に目を奪われる。
「津波、死者行方不明者多数」
そして
「原子力発電所で爆発」
目を、耳を疑った。
「世界が終わるんだ」
本気でそう思った。
ぼうっとする頭で彼女の家族が用意してくれたご飯を食べ、用意してくれた布団で横になる。
深夜、過呼吸で飛び起きる。錯乱状態、パニックになっていた。
何もかもが18歳の自分が持てる器を凌駕していた。
ここからの記憶は殆ど無い。
最後の震災直後の記憶は、この日の、3.11の数日後。震災以前に、友人とディズニーランドに行く予定を立てていた日。
何が目的だったかは分からないが、友人と私はディズニーランドに向かう電車に乗っていた。
(記録を調べたところ、ディズニーランドは震災の翌日より休園になっていた。当時それを知らないはずないのだが)
乗客は自分たち以外ほぼいなかった。
言葉少なげに会話する。
「会えてよかった」と言い合ったことを覚えている。
私も(そしてきっと彼も)それ以外何を言ったらいいかわからなかった。
安易に話せる話題が何もなかった。
東北の被災地、被災した人たちのこと、これからの日々、これからの社会。
そして、放射能の恐怖。
どれも、話すことを憚るには充分すぎるくらい繊細で、口に出すのが怖くて、どうにもならないことだらけだった。
目に映る傷と、目に見えない恐怖。
馬鹿みたいに澄み渡った青空を、並んで座った座席から眺め続けていた。
それからの日々は、例えば盛大だと評判で楽しみにしていた大学の入学式が、心底味気ない灰色の教室で粛々と催されたこと。
余震と放射能、計画停電。被災地の惨禍。震災という出来事を中心に動き出す社会。それらの情報を日々追い続けたこと。
私の、個人的な震災の記憶はここまでだ。
気がつけば十年。
私の中で、明確にあの日以降と以前で人生に区別がある。
同じ時を過ごした多くの人がそうだろう。
今になって思うことといえば、3.11以降。大学生時代の私についてだ。
あの頃の私は、社会のどうこうと関係なく先を求める一人の若者でもあった。
震災の経験者としての自分と、年相応の世界を謳歌したい若者としての自分。
壊れた世界のなかで、見せかけの普通さを享受する自分。
多くの、軽々しく流してはいけないほどの悲劇と隣り合わせの記憶を懐かしみ愛でる気はない。
けれど、二つの自分がいて、そこに良いも悪いも、正しいも間違いもなく、ただ事実としてその両面で自分は生きていたし、生きてきた。
3.11という出来事に対して私はずっと宙ぶらりんだ。
私は家族も友人も大切な人を失うことはなかった被災者だ。
言葉にし尽くせないほどの悲しみと痛みを負った人が多くいる中で、自分のことを被災者とは言えないし、言いたくないと思う。
けれど、家と街を破壊された衝撃は焼き付いて離れない。
私はいま写真をやっている。
写真はただの化学現象だ。感光剤(あるいは感光センサー)を用いて、光を焼き付け平面に像を結ぶ物でしかない。
だから、本質的には、出来事やなにかの真実を直接写しとるものでは決してない。
それでも極めて視覚と似たものを残せるのが写真だ。
だから、人の記憶や体験と深く繋がる。
あの日、持っていたガラケーで破壊され海になった街の姿を何枚か撮影した。
私は未だにその日の、その写真たちを眺め続けている。
災禍も祝福も、全てはいつだって唐突に、望まず訪れる。
昨年から続くコロナ禍にしたってそうだった。
世界も日常も一瞬で塗り替えられてしまう。
次は何が起こるだろう。
その時、私は何を思い、何をするのだろう。
終わりに、もしあの日の記憶、体験をお持ちの方いらっしゃいましたらコメントにて書いていただけると幸いです。
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